かつてFUJI XEROXのCMに出演し、披露したヒューマンビートボックスで日本中に衝撃を与えたAFRA。
CMが放映された2004年当時、日本ではまだまだヒューマンビートボックスはマイナーな存在だった。
そんな中、口ひとつでいろんな音を同時に発していく無名だった彼の姿はみんなの脳裏に焼き付き、一躍、時の人となった。
間違いなく日本のヒューマンビートボックス界のパイオニアと言えるAFRAの、CMに登場するまでのストーリーをここでじっくり振り返ってみたい。
だが、今回セッティングされたAFRAへのインタビューは、思わぬ告白から始まった。
世界一ではありません
「まず言いたいんですけど、僕が世界一だっていう情報が出回ったことがあるんですけど、それ、完全に誤解なんです(笑)。芸人の小籔千豊さんが僕のことをテレビに呼んでくれて『世界一なんですよ』って紹介しちゃって……。収録始まってたんで訂正できず、気まずいなぁ、みたいな(笑)」
もちろんその後に番組ディレクターには間違いということは伝えたという。
世界一ではなく、ブルックリンのとある大会で優勝したことがあるくらいだと。
「でも、そのディレクターさん、『ブルックリンで優勝したんなら世界一ですよ!』って(笑)、押し切られちゃいました……(笑)。ネット上にもそれが残っちゃってるし、なんであのときNOが言えなかったんだろって反省しています」
こういう正直なところにAFRAの人柄のよさが表れている。
「だからここで言わせてください。僕は世界一になったことありません!」
セントラルパークでの衝撃
ではここからAFRAの経歴をたどってみよう。
ヒューマンビートボックスとの出会いからして、かなり貴重といえるものだったようだ。
「高校2年の夏、初めてNYに行ったんです。当時からヒップホップが大好きでしたし、先にNYを体験した姉から、あっくんも絶対に行った方がいいって強く勧められて。10歳くらい上の従兄弟がNYで仕事をしていたので泊まる場所のアテもありましたし、初のNYで1ヶ月ちょい、夏休みのほとんど滞在させてもらっったんです」
小学生の頃にテレビのダンス甲子園にハマり、中高時代にかけては次第に盛り上がる日本のヒップホップシーンとシンクロするように、ヒップホップ熱が高まっていたこの頃のAFRAにとって、NYはまさに憧れであり聖地であった。
「ビートボックスはもちろん、フリースタイルとかサイファーも、まだ日本では根付いてないと感じていたので、本当のヒップホップが生まれた場所で、この目でその本物に触れたかったんです」
従兄弟の家があったのはマンハッタンのヘルズキッチン。
今でこそ再開発が進み注目スポットと言われるエリアだが、1996年当時はまだ治安も悪かったこの地区で、近くのレコード店に通い、置いてあるフライヤーから現地の情報を漁りまくった。
「そこで、夏の間ずっと【サマーステージ】っていうフリーコンサートをセントラルパークでやってるって情報を発見したんです。いろんなジャンルのアーティストがライブしてたんですけど、ある日のスケジュールを見ると、A Tribe Called Quest(ア・トライブ・コールド・クエスト)が出ると。ちょうど『Beats Rhymes & Life』を出した直後だったんですよね」
なんともうらやましい話だが、当時のAFRA少年も、これは必見のライブだと心を踊らせた。
「でも、早い時間に公園に行ったら、なんと出演キャンセルだったんです……。ガクッってなったけど、その代わりにフィラデルフィアからThe Roots(ザ・ルーツ)が来ると聞いたので、それはそれで楽しみにしてました」
そしてこの残念すぎるキャンセルによる偶然の出会いが彼の人生を変えることとなった。
「The Roots、ほんと衝撃でしたね。ライブはもちろんですが、この日Rahzel(ラーゼル/※注1)のヒューマンビートボックスを生で聴いて、なんなんだこれは!!‼︎って」
マイク1本でヒップホップを表現していたRahzelの姿、いろんな「音楽」が口から出てくる。その状況を目の当たりにしても、どうやって音が出ているのか理解不能だった。
「帰り道から見よう見まねで音を出そうとしてました。どうやって音を出してるのか解明したかったし、単純にかっこよかったから真似したかったんですよね」
まるでボクシング映画を見たあとの男子がシャドウボクシングに興じるが如く、AFRAはヒューマンビートボックスの世界に、瞬時に魅了されてしまった。
(※注1)ヒップホップバンドThe Rootsの元メンバー。ヒューマンビートボックス界ではゴッドファーザー・オブ・ノイズの異名をとる。
マイク1本で観衆を魅了させること
まだ日本ではヒューマンビートボックス自体が認知されていなかった時代。
AFRAがその頃のシーンを解説する。
「実ははるか昔、80年代にDoug E. Fresh(ダグ・イー・フレッシュ)とかThe Fat Boys(ファット・ボーイズ)が出てきてヒップホップが盛り上がっていたこともあったんですよ。これがヒューマンビートボックスの世界的な第一波だと思います。それがいったん下火になった後の、90年代にThe RootsのRahzelが出てきたんです。彼のヒューマンビートボックスってそれ以前よりも出す音の種類が格段に増えたんですよ。ここがひとつ目のオールドスクールからニュースクールの転換期なのかなと思っています」
とはいえ、AFRA自身もヒューマンビートボックスに興味こそあったが、自分でやろうなんて考えたこともなかった。しかし、一度目の当たりにしたことで、そのすぐ直後から挑戦を始めたのだ。
「マイク1本で人を乗らせてて、他に何も持ってないんですよ。それなのにWu-Tang Clan(ウータン・クラン)のビートを再現してたり、そもそもなんで2音同時に鳴るのか?とか意味不明なことばっかりですし(笑)。最初はびっくり人間とかマジックを見てるような感覚でした」
実は高校生のときから、ヒップホップに携われることならしたいと漠然と夢見ていた。
「子どもの頃はそれこそダンス甲子園を見て、れいかんやまかんとんちんかんとかの真似してましたし。中学生のときにはラップの真似ごとをやったりもしました。でも、まだ若かったですし、あまり熱中できなかったんですよね。でもヒューマンビートボックスに出会ってからは、家にいるときもひたすら練習に明け暮れてました」
とはいえ、もちろん教えてくれる人もいない時代のこと。
とにかく想像で音を作っていくしかない。
「NYではいろんなイベントに行っては、サイファーの中でビートボックスやってる人の見て技を盗んだりしていました。友達の家でフリースタイルしたり、遊びながら独学的に習得していきました」
もう一度NYへ
人生を変えた1996年のNY滞在から帰国したAFRAを待ち受けていたのは、いまだ芽すら出ていない日本のヒューマンビートボックス事情だった。
「ヒューマンビートボックスの収録されたレコードとかCDを漁りたくても、レコ屋の店員さんですらヒューマンビートボックス自体を知らないことも多かったんです。とにかく知識のある人がいなかった…」
そんな厳しい状況の中でも自己流で練習を続け、なんと、それを披露する場所も見つかった。
「高校卒業したあとは、お互いにThe Rootsが大好きだったヒップホップバンドの韻シストと出会ってから、よく一緒にライブをやったりしたんです。藤井寺のカフェとか、すごい小さい会場でしたけどね。もちろん今見たら恥ずかしいようなレベルなんですけど、当時は口からビートを出しただけで『すごい!』って言われるような感じでした」
ヒップホップがかかる地元大阪のクラブに、韻シストとともにライブ出演できるか尋ねたりしたが、生演奏はできないと断られたり、パフォーマンスできない環境をもどかしく思っていた。
そして、AFRAは高校を卒業した1年の後、1999年の7月再度NYへと飛び立つ。
今度はヒューマンビートボックスやラップをNYでやりたいという憧れを抱いて。
「ホームステイしてたロングアイランドから毎週末マンハッタンへ通って、オープンマイクに参加したり、サイファーに飛び入りしてラップやヒューマンビートボックスをやったりしてました。これが意外とけっこうウケたんです。そう僕は受け取ってるんですが、めちゃくちゃ自信になりましたね。現地のアーティストも『ヒップホップに人種は関係ない』って受け入れてくれたりして」
異国の地、本場での、まさに武者修行。
これは若いからこその突進力ともいうべきだろうか。
「いま考えても度胸がいることだと思いますけど、当時はめちゃくちゃガメつかったんですよ(笑)。怖いとかいうより、自分を見てほしい、日本人でもこんな奴おるぞ!ってアピールしたい一心でしたね」
運命を切り開いた突進力
この頃からほぼNYに住むようになっていたAFRAだが、毎年1度は帰省し、韻シストのイベントに出演するなど、修行の成果を披露していた。
そんなとき運命の出会いがあった。
「スチャダラパーの大阪公演を観に行って、前座に出ていた京都のラップグループJUNK FOODに『ちょっと飛び入りさせてくれー!』ってNYのオープンマイクみたくアタックしました(笑)。知り合いでもなかったし、めっちゃめんどくさいヤツだと思われたでしょうけど。でも、そのステージに上がってヒューマンビートボックスを披露したら、たまたまシンゴスター(※注2)さんが見てくれていて、僕のことを面白く思ってくれたんです」
これもNYで磨きをかけた自分自身の突進力が成せる技だったのだろう。
そしてこれを機にゆっくり動いていた歯車が一気に回り出す。
「そのしばらく後に、シンゴスターさんから、『今度、ODDJOBというレーベル作るんだけど、スチャダラのシンコプロデュースでうちからリリースしない?』って誘っていただいて。マジっすか!?って、感激でした。スチャダラパーとお仕事するのは大きな夢のひとつでしたから」
話はスムーズに進み、CDのリリースはすぐに現実になった。
「タワレコでインストアライブさせてもらったり、デビューからけっこう売り出してもらえたんです。そしたらしばらく会っていない親戚から連絡があって、なんとTBSの深夜の音楽番組のディレクターをしていると。それで、番組に出演してヒューマンビートボックスを披露してほしいって」
なおも歯車は回り続ける。
「その番組で披露したヒューマンビートボックスが、とあるCMプランナーさんの目に止まって、今度のCMに僕を使おうということになったみたいです。点と点がずっとつながっていった感じですよね」
そして2004年、冒頭でも触れた、日本中に衝撃を与えたCMがオンエアされた。
「CMの反響はものすごかったですね。いろんな知り合いから急に連絡が来るようになりました(笑)。ひさしぶりに小中学時代のサッカー部の友達から電話がきて、W杯予選を観に行ったらハーフタイムにスタジアムの電光掲示板でCMが流れたとか。まさに急に全国区になっちゃったって感じです。全国ツアーをやらせてもらって、どこの会場にもかなり人が集まってくれたりして」
実はAFRAには、このCMが少なからず話題になる自信があった。
「NYにいたとき、日本で流行っているテレビ番組を見る機会があったんですけど、ハモネプでボイスパーカッションが流行り出してたんですよね。それを見て、自分がやってるヒューマンビートボックスを見せればみんなビビるんちゃうかなって、そう思ってた節もありました(笑)」
1999年にNYへ再度渡り、約4年の間にかなり上達した実感もあった。
ヒップホップが日常に根付いているNYで、The Neptunes(ザ・ネプチューンズ)やRUN DMC(ラン・ディーエムシー)などのビートを演奏し、現地の耳の肥えたヒップホップファンを盛り上げてきた。
日本に帰ってくるたびに上手くなっている、まわりの音楽仲間からそう評価してもらっていた。
「とはいえ、あそこまで急にいろんな仕事に呼ばれるとは想像していなかったですけどね。憧れていた雲の上のようなアーティストさん方ととコラボさせてもらったり、テレビにもたくさん出演させてもらって」
この頃から日本でもヒューマンビートボックスというものが一気に認知され始める。
しかも、トップYouTuberであるHIKAKINや、KAT-TUNの中丸雄一もAFRAのヒューマンビートボックスから大きな影響を受けたと公言しているのだ。
AFRAが日本のヒューマンビートボックス界に与えた影響は、あまりにも大きい。
(※注2)アニメーションや音楽の制作など幅広く活動し続けているクリエイター。元ホフディラン。現在はクリエイティブカンパニー「ODD JOB」代表。
ちょっと立ち止まってみて
とはいえ日本にヒューマンビートボックス文化が根付き、まだ十数年である。
そしてAFRAは今なおシーンの発展に貢献しようと行動を続けている。
「コロナ以前まではヒューマンビートボックス全国大会の地方予選とかでジャッジをやらせていただいたりしました。ここ数年はたくさんの後輩たちがビートボックスを頑張って盛り上げているので、僕もできる限り手伝いたいと思っています」
2021年には世界大会で日本人ビートボクサーたちが初優勝するなど、名実ともに日本のヒューマンビートボックス界は成熟を見せている。
「正直、ここまでシーンが大きくなるとは思っていなかったです。もはや小学生だったらみんなできるんちゃう?というのは言い過ぎですけど、それぐらい知られるものになってますよね。世界的にも認知されてるトッププレイヤーのSARUKANIとかRofu、SHOW-GOくんとかの影響力は本当に凄いなあと思っています。新しい技もどんどん出てきていますし、進歩のスピードが止まらないです。止めてください(笑)」
しかしその一方で、コロナ禍による影響も少なくない現状もある。
「音楽の現場が大打撃な上に、ビートボックスはどうしても飛沫が多いので、現場があってもそこは自然と神経質になりますよね。だからこそインターネットを使って盛り上げていくっていう風潮がより追い風になっていると思います」
それだけでなく、コロナ禍だからこそ気づいたことも多々あるという。
「僕はもともと音楽が好きで、ヒップホップが好きで、ラップをやりたかったただの少年で、気づいたらあれよあれよと言う間にビートボクサーになっていたんです。アルバムもDVDも出させてもらったけど、もっとビートメイクしたり音源を作ったり、もっともっとやりたいし、もっとやってくればよかったと思っているんです」
さらに、これからの新境地を垣間見せる発言も飛び出した。
「自分で自分のことをビートボクサーだと決め込んでしまってたのかなと……。表現する手段はひとつじゃないはずだし、もっと柔軟になっていいのかなって。ビートボックスはやっていきながら、自分でもビートを作ったり、ラップをしたり、それこそ絵を描くのが好きだからアートの個展をやってみたり。ちょっと寄り道することも大事なのかなって」
少し立ち止まることで見えてきた、いま本当にやりたいこと。
それは、これからビートボクサーを目指す若者へのメッセージも込められている。
「ビートボックスができるのはもう珍しくなくなってきていて、どんな世界をビートボックスを通して作り出すのかというもっと広い次元になって来てるんです。だからどんどん面白くなってるんです。ワクワクしてこそ旅を続けられると思います」
そして最後に自分へも自戒を込めてメッセージを送った。
「自分も40歳になって最終形態かというと、そんなことは思いたくはないし、まだまだ日々精進ですよ。若い子には負けられないって、最近の方が必死になっていたりしますし。面白さを追求することは、自分の運命だと思っているし、そこへのパッションは絶やさないようにしたいから」
インタビューと撮影が終わると、AFRAはStillTokyo読者のためにフリースタイルを披露してくれた。
これこそが日本のヒューマンビートボックス界を切り開いてきた力なのである。
AFRA
2022年1月26日にニューシングル「KEMONO」をリリース。
視聴はこちらから
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