2013年にメジャーデビューし、世界を舞台に活躍したダンスボーカルユニット、TEMPURA KIDZ(テンプラキッズ)。
カラフルでド派手な衣装に身を包み、きゃりーぱみゅぱみゅのバックダンサーとしてキレッキレのダンスパフォーマンスを魅せていたきゃりーキッズを前身とする、このグループのリーダーを長年務めてきたYU-KAが、ついにこの春、グループを卒業した。
卒業から約半年、コロナ禍の今、何をしているのか。
彼女のこれまでの足跡を辿るとともに、これからの展望までじっくり聞かせてもらった。
小2から運命的な出会い
「もう22歳になりました。ダンスは小学2年で始めたのでダンス歴は14年以上になります。人生で記憶のあるうちのほとんどをダンサーとして過ごしてるんですよね」
黒のシースルートップスにキャミワンピを重ね着した大人っぽい装いの彼女は、少しはにかみながら、記憶を掘り起こすように語り始めた。
「もともと幼稚園の頃からキッズモデルをやっていたんです。ファッションショーとかで可愛いお洋服を着れるのが嬉しかったし、その頃ってディズニープリンセスが人気で”プリンセスごっこ遊び”が流行っていて。そのときに自分の中で変身願望みたいなものが芽生えたのかも。いつもと違う自分になれるのが楽しくなって、そのうちチュチュが着たくなって、バレエ教室に通い始めました」
当時から人前に立つことは好きで、発表会なども楽しかったという。
そんなとき「ダンス」というものと運命的な出会いを果たす。
「たまたまバレエの発表会と合同でやっていたヒップホップダンスを見て、カッコいい!って思っちゃって。『これやりたい!』って自分で言い出したみたいです(笑)。それまでヒップホップに触れたこともないのに、ビビッときた感じですね」
それからすぐ、地元のダンススクールに通い始めることになる。
時はまさにダンスブームで、街にはダンススクールもたくさんあった。
「そこからはずっと巡り合わせとか出会いに恵まれてるんですよ。初めて行ったスクールの先生が、w-inds.さんの振り付けもやっていたり、最近でもD LEAGUE(※注1)の立ち上げに関わったようなすごい方だったんです」
出会いは成長の種という歌のタイトルが頭をよぎるが、小学2年生にしてYU-KAは素晴らしい出会いに恵まれたことを実感した。
「通い始めてすぐ、その方にw-inds.さんの武道館ライブにバックダンサーとして出ない?って誘っていただいたんです。ダンス始めたばっかりでまだまだヘタクソだったんですけど、こんなチャンスないって子どもながらに思って、出ます出ます!って二つ返事してました。その後紅白のステージにも呼んでいただいて、いま思うとタイミングにも恵まれてましたね。それがきっかけで大きな舞台でダンスをすることの楽しさを覚えて、もっとやりたい!って気持ちが燃えて、さらにダンスの虜になっていったんです」
そう、仕事での初舞台は、なんと日本武道館だった。
その後も他のアーティストのバックダンサーの仕事を紹介してもらったり、w-inds.のツアーにもずっと呼んでもらうことができた。
なかなか経験できないような大舞台に立てたことは本当にラッキーだったとYU-KAは語る。
(※注1)日本のストリートダンスの発展を図り2020年に発足した世界初のプロダンスリーグ。
ダンス界のレジェンドを師匠にして
次の転機は小学4年生のころだった。
「今でもずっと憧れ思い続けているMAIKOさんに出会ったんです。私の世代では誰もが知っていて、みんなが憧れる存在というか、ダンサー界のレジェンド的存在のひとりなんです」
崇めていたダンサーと出会い、師匠としてついていったことが、この後の人生に大きく影響を与えることになった。
「ある日MAIKOさんから、きゃりーぱみゅぱみゅっていう人気モデルの子がアーティストデビューするからバックダンサーやらない?ってお話をいただいたんです。そのときは、憧れのMAIKOさんにお声がけいただいたことが死ぬほど嬉しかったですし、師匠の振り付けで踊りたいっていう一心でついていきました」
そして「きゃりーキッズ」の一員として動き出したYU-KAは、これを機にどんどん忙しくなる。
きゃりーぱみゅぱみゅの大ブレイクとともに、そのバックでエネルギッシュに踊る小さなダンサーたちにも必然的に注目は集まった。
「キッズダンサーがアーティストのバックで踊ってるっていうのも目新しかったからか、けっこうスポットを当ててもらえることも多かったんです。そういうこともあって、きゃりーキッズのメンバーで、そのままTEMPURA KIDZとしてメジャーデビューさせてもらうことになりました」
当時は奇抜に聞こえたこのグループの名前にも狙いはあった。
「最初から海外に向けて活動することを視野に入れていたので、海外の人が日本をイメージしやすい名前にしようってなって、サムライとかスシとかフジサンとかいろいろ出たんですけど(笑)、テンプラって“天”がついてて縁起いいねって、MAIKOさんたちと話しながら決めました」
リズム音痴だった過去
と、ここまで至極順調のようなアーティスト人生を書き綴っているが、このとき、まだ中学1年生。
単に出会いに恵まれただけではなく、しっかりした実力なければ成し得ることができない経歴をすでに重ねている。
「実はリズム音痴だったんですよ。兄と一緒にダンスを始めたんですけど、兄にはすぐできることが、私はなかなかできなくて……。最初はダウンアップもできなかったし、才能ない、向いてない、って落ち込んだんです。でも、できないことがイヤすぎて、がむしゃらにひたすら練習してました。家でも外でも、鏡があれば踊ってましたね。毎日3-4レッスン受けたりして、とにかく上手くなってやるって思ってました」
やはり努力なくして成功なしということだろう。
子どもの頃からモチベーションを保ち続けられた理由をこう自己分析する。
「もちろんダンスが大好きなのは前提にあるんですけど、性格上めちゃめちゃ負けず嫌いだからっていうのもあったと思います。辛くても、泣きながらでも、とにかく死ぬほど練習しました。やり始めたからには極めたい、突き抜けたいって気持ちが強かったし、その頃から将来はプロのダンサーになりたいって思ってました」
海外で受けたカルチャーショック
デビュー前から注目されていたTEMPURA KIDZは、その名前に込めた願いの通り、すぐに海外でも活躍した。
「TEMPURA KIDZとして初めて行かせてもらった海外がタイだったんですけど、その出演したフェスのメンバーがすごくって、GOT7とか2NE1と並んで出させてもらって、すごい感動したのを覚えています」
実は海外進出の思い出はライブだけではない。
もしかしたらライブよりもっと大きな経験を、この時期に積み重ねていた。
「ODA(政府開発援助)に関わる活動ができたことですね。自分たちでできる国際協力をしようっていうコンセプトの『僕らが世界でできること』っていう番組があったんですけど、TEMPURA KIDZができることということでフィリピンのパヤタス地区というところに行ったんです。スモーキーマウンテンっていうゴミの山があって、そこに住む子どもたちにダンスを教えたりしたんですけど、本当に衝撃的でした」
それまで知らなかった世界。
いわゆるスラム街で暮らす子どもたち。
車から出るのをためらうほどの悪臭が立ち込める場所。
「こういう世界もあるんだって……ショックでしたし、正直くらいました。自分がいかに安全な環境で育ってきたかって……。でも、その場にいる子たちは明るくて元気なんです。ダンスを教えるとみんな楽しんでくれて、ダンスって本当に世界共通なんだなって実感できました。言葉は通じないけど、魂と魂で感じあえた気がして、すごい仲良くなって、バイバイするときは泣きながら抱き合ったりして、ダンスの力はすごいなって心の底から思うことができました」
それからも海外でライブがあるたびに孤児院などに出向き、ダンスのワークショップをやり続けていたというTEMPURA KIDZ。
「私にはダンスっていう好きなものがあって、それが仕事になっている。ダンスにはそんな夢もあるんだってことが伝わればいいなって思ってました」
走り続けてきたその先に
その後も国内外での活動を続け、それと同時に他アーティストへの振付提供まで行うようになったTEMPURA KIDZ。
順調に見えていた彼女たちにも2020年、新型コロナウイルスによる影響が襲いかかる。
海外でライブをすることも多かった彼女たちには大きすぎる打撃だった。
「ちょうどコロナの影響が出始めたとき、ダンスをやめようかなって考えたくらい病み期に入っちゃったことがあるんです。それまでは一回もそんなこと考えたことなかったんですよね。毎日ダンスをするのが習慣でしたし、それが私の人生だと思ってたので」
2011年にきゃりーキッズに選ばれてからずっとグループ活動をしてきた。
365日中360日ほどもTEMPURA KIDZとして活動していたこともあったという。
「いま考えると、コロナのせいというよりも、それぞれが大人になってきて自我を持ち始めた時期だったのかもしれません。もっと進化していかないと、自立していかないと、っていう焦りもあったんですよね。それまでは必死に走り続けてきたけど、いろいろ考えるいいきっかけになったって思うんです。考えることが苦手だから、流れに身を任せてきたんですよね、それまでは。目の前のことを必死にやり続けてきたので、その癖がついていたのかもしれないです。でも、コロナで仕事もかなり減ってきた中、事務所のみなさんは優しかったんですけど、そこに甘えてちゃダメなのかなって」
そして2021年春、コロナ禍において一度は延期した卒業公演を無事に行い、第2の人生を歩み始めた。
「TEMPURA KIDZには青春のすべてを注いできましたから、それがなくなって、ゼロの状態になったのが人生で初めてなんです。今までは誰かに守ってもらってたし、やらなきゃいけないことがあるのが当たりまえだったけど、やることを自分で自由に選択するのってけっこう難しいですよね」
とはいえ、卒業して約半年、自由を楽しむ余裕もだんだんと出てきている。
「試行錯誤ではあるんですけど、いろいろ始めています。誰かに管理されず、自由なことって素晴らしいなって思う反面、怖いと思うことも多いですけど、今は自由をゆっくり楽しみながらいろいろなことを考えたいですね。ようやく世間を俯瞰的に見れるようになってきたので、もっと外の世界を自由に見てみたいし、いろんなものから刺激を受けて、インプットして、自分を形成していきたいなって」
そして、その成果は早くも形になって現れてきている。
「歌を出したんです。仲いいアーティストのShow Chick Boyに私をイメージした曲を作ってもらって、MVも親友の矢部ユウナに撮ってもらって。グループを卒業したら一緒に何か作ろうって話をしてたのもあるし、やっぱり音楽も大好きなので、まずはそこから始めてみようかなって」
タイトルは「キシリトールガム」。
今までのイメージからすると意外なほど、しっとりと大人っぽい曲だ。
「普段からKiroroさんとかおかもとえみさんとか、しっとり系の曲ばっかり好きで聴いてるんです。それもあるし、私自身の今までのイメージとギャップがあるのがいいかなとも思ったり。これからはいろんな人とコラボしたり、どんどん活動の幅を広げていきたいですね」
今後のことを話しはじめると、大きな目をさらにキラキラさせた。
「ダンスに関しては、指導とか振付提供の仕事が今は多いんですけど、グループのプロデュースもしてみたいし、それこそダンスとか音楽関係の会社を作りたいっていう想いもあります。所属していた事務所(アソビシステム)がすごく愛のある環境で、ずっとそこで育ってきたので自分もそういう場所を提供できる存在になりたい。そういう野望はあります!」
もちろん自分自身、ダンサーとして表現したいこともまだまだある。
最後に出た言葉はダンスに対する最大限の愛だった。
「ダンスをしてるときは自分が自分らしくいられるし、生きてるっていちばん感じられる瞬間なんです。でもダンスって正解もないし、いつまでたっても満足できないので、もっとできる、もっとできるって思うんです。言葉にできないこともダンスなら表現できるって信じてるし、もっともっと表現をしていきたい。ダンスで表現できることは無限大だって信じていますから!」
YU-KA
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Text & Photographs by Tomoyuki Omatsu(Still Tokyo/Btree)
Collaborative Activity & Coordinated by Hiromasa Ishikawa(Still Tokyo/GIGGLYROY)